国分寺市の概要
国分寺市は、東京都のほぼ中央に位置し、東は小金井市、南は府中市・国立市、西は立川市、北は小平市と隣接しています。市域は、その大部分を占める高台上の平坦地である武蔵野台地と、それに連なる急な崖(国分寺崖線)を境に立川台地、そしてこの崖線の下を流れる野川上流の谷によって形成されています。市内にはJR中央線・武蔵野線、西武国分寺線・多摩湖線が縦横に走っており、国分寺駅は多摩地域の交通の要衝となっています。
首都近郊にあることから、ベッドタウンとして急速に都市化が進むなか、武蔵野の面影を残す、水と緑に彩られた文化都市として、発展を続けています。
国分寺のあゆみ
奈良時代の天平13年(741年)、国府が置かれていた現・府中市から北に約2.2キロメートル、武蔵野台地を背にした平原部(現在の西元町)に、国分寺の建立が開始されました。完成した武蔵国分寺は、諸国の国分寺に比べて、規模や雄大さにおいて群を抜いていました。その後、多摩地方は武蔵の政治・文教の中心として、経済・交通・文化・産業など、あらゆる面で発達し、画期的な繁栄時代を迎えることになりました。
鎌倉時代には、鎌倉街道が設けられ、恋ヶ窪地域は宿場町として栄えました。しかし、元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉に攻め上る途中の戦火によって、偉容を誇った武蔵国分寺は焼失し、それと同時期に、国分寺・恋ヶ窪地域は農村集落へと姿を変えていきました。
江戸時代の享保年間(1716年〜1735年)には、武蔵野の新田開発は広く盛んに行われました。内藤新田・野中新田など、新田名で呼ばれた大字名の地域は、すべてこの時代に開発されました。
明治に入ると、維新の変革によって、純農村として時代を歩んできた村民の生活環境は大きく影響を受けました。慶応4年(1868年)には、国分寺村・恋ヶ窪村・内藤新田・戸倉新田・本多新田の5村は品川県に、榎戸新田・野中新田六左衛門組・平兵衛新田・中藤新田・上谷保新田の5村は韮山県に属しました。
明治22年(1889年)には、町村制施行によって10村が合併し、国分寺村が誕生しました。そして、甲武鉄道(現・JR中央線)が新宿〜立川間に開通し、国分寺駅が開設されると、次第に本町・本多地域は開発が進んでいきました。
明治26年(1893年)には、国分寺村が東京府に編入され、翌年、国分寺・東村山間に川越鉄道(現在の西武国分寺線)が開通し、さらに府中へ馬車便が通うようになりました。
こうして、めざましい交通機関の発達や東京市民の郊外進出などにより、国分寺の人口も次第に増えていきました。
昭和15年(1940年)には、町制によって国分寺町となり、昭和39年(1964年)には、市制施行によって現在の国分寺市が誕生しました。その後の昭和48年(1973年)には、現在のJR武蔵野線が開通し、西国分寺駅が開設されました。現在、「健康で文化的な都市」を目標に、国分寺駅北口再開発や西国分寺駅周辺の整備、文化財の復元に取り組んでいます。
国分寺の名前の由来
古くは大化改新後、武蔵国の国府が府中に置かれ、その後、武蔵国分寺が現在の地に建立されたことに由来します。
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国分寺市民俗資料室 |
| 住所: |
国分寺市本多5-24-11 [地図を見る] |
| 電話番号: |
042-324-7323 |
| 開館時間: |
10:00〜16:00 |
| 休館日: |
月曜日、祝日、12月28日〜1月4日 |
| 入館料: |
無料 |
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